プラトンの著作を原典から超・現代語訳しました。
【登場人物】
ソクラテス:20歳前後の若者。目に見える世界を超えた「イデア(形)」の存在を確信している。
ゼノン:パルメニデスの弟子。師の教えを守るため、相手の矛盾を突く「逆説」の達人。
パルメニデス:当時65歳ほど。深遠な知恵を持つ伝説的な哲学者。
ゼノンの「逆説」の狙い
(ゼノンが自分の書いた本を読み終えた後、ソクラテスがその論理の本質を問い質します)
ソクラテス:ゼノン先生、あなたの本の意図を確認させてください。あなたは「もしこの世界に『多(たくさんのもの)』が存在すると仮定すると、それらは『似ている』と同時に『似ていない』という矛盾した性質を持たねばならず、それは不可能である。ゆえに、世界に『多』は存在しない」と結論づけていますね。つまり、師であるパルメニデス先生の「あるものは一(ひとつ)である」という説を、反対側から証明しようとしているわけだ。
ゼノン:その通りだ、ソクラテス。私の本は、師の説を「馬鹿げている」と笑う連中への意趣返しなのだよ。「世界は多である」という彼らの前提こそが、もっと馬鹿げた矛盾を引き起こすことを示してやったのだ。
ソクラテスの切り札「イデア論」
(ここでソクラテスは、ゼノンの論理的矛盾を解決するための「新しい枠組み」を提示します)
ソクラテス:しかし先生、こう考えれば矛盾は消えるのではないですか?
「似ていること(類似)」そのもののイデア(本質的な形)があり、それとは別に「似ていないこと」そのもののイデアがある。そして、目に見えるこの世界の事物(私やあなた)は、その両方のイデアを同時に「分け持って」いるのだ、と。
私が「一(ひとりの人間)」でありながら、「多(右、左、前、後ろ、という多くのパーツ)」でもあるのは、私が「一のイデア」と「多のイデア」を同時に分け持っているからです。これは少しも不思議なことではありません。
ゼノン:ふむ、具体的で目に見える物についてはそうだね。
ソクラテス:私が驚くのはそんな当たり前のことではありません。もしあなたが、目に見える物ではなく、抽象的な概念そのもの……例えば「類似そのもの」が同時に「不類似そのもの」であったり、「一そのもの」が「多そのもの」であったりするという、イデアの世界における矛盾を証明できるなら、それこそ奇跡だと言えるでしょう。
巨匠パルメニデスの静かな問いかけ
(若きソクラテスの自信に満ちた反論を、パルメニデスは感心した様子で聞き、そして静かに本質的な問いを投げかけます)
パルメニデス:ソクラテス君、君の「イデアと個物を切り分ける」という発想は見事だ。では、君がどこまでその境界線を引いているのか教えてくれ。
まず、「正義」や「美」「善」といった価値判断には、それ自体のイデアがあると思うかね?
ソクラテス:はい、もちろんです。
パルメニデス:では、「人間」「火」「水」といった自然物についてはどうだ? それらにも独立したイデアはあるのかね?
ソクラテス:……(少し悩みながら)正直に言うと、そこについては、あると言い切るべきか、ないと言うべきか、いつも迷ってしまうのです。
パルメニデス:では、もっと卑近なもの……例えば「髪の毛」「泥」「汚れ」といった、取るに足らない汚らしいものについてはどうだ? これらにも君は、立派なものと同様に「イデア」という高貴な形を認めるのかね?
ソクラテス:いえ、まさか! そんなことはありません。目に見える汚れは、ただの汚れに過ぎません。そんなものにまでイデアがあるなんて考えるのは、あまりに理屈が過ぎるというか、馬鹿げたことだと思えてしまうのです。……ただ、時々、あらゆるものにイデアがあるのではないかと不安になって、怖くなって逃げ出してしまうこともありますが。
パルメニデス:ソクラテス君、それは君がまだ若く、世間の評判を気にしているからだ。哲学がもっと君の魂を深く捉えるようになれば、君はどんなに小さなものも、価値がないと軽蔑しなくなるだろう。
「全体」を分けるのか、「一部」を分けるのか
パルメニデス:ではソクラテス君、君の言う「分有(分け持つ)」について検討してみよう。個々の物がイデアを分け持つというとき、それは「イデアの全体」を分け持つのか、それとも「イデアの一部」を分け持つのか、どちらだと思うかね?
ソクラテス:全体を分け持てない理由はありません。一つのイデアが丸ごと、個々の物の中に存在するのだと考えます。
パルメニデス:ふむ。しかし、一つのものが丸ごと、あちこちにある別々の物の中に同時に存在するとしたら、そのイデアは「自分自身から切り離されて」バラバラに存在することにならないかい?
ソクラテス:いえ、そんなことはありません。例えば「一日」という時間は、多くの場所に同時に存在しますが、それでも一つの同じ時間ですよね。イデアもそのようなものとして、一つのまま多くの物の中に同時に存在できるのではないでしょうか。
「帆」のたとえ
パルメニデス:面白い例えだ。だが、それは「一枚の大きな帆を、たくさんの人の上に広げて被せている」ようなものではないかな? 君は、その「帆の全体」が一人一人の上にあると言うのか、それとも「帆の一部」がそれぞれの上にあると言うのかね?
ソクラテス:……それは、一部ということになりますね。
パルメニデス:だとしたら、イデアもまた「一部」に分割されて個々の物の中に存在することになる。そうなると、イデアはもはや「一(ひとつ)」ではなく、バラバラの断片になってしまうが、それでもいいのかい?
属性の矛盾
パルメニデス:さらに考えてごらん。もし「大きさのイデア」を分割して、個々の物がその「一部」を持つとしよう。すると、その物は「大きさ全体」よりも「小さな一部」を持つことで「大きく」なることになる。これはおかしいと思わないか?
あるいは「平等のイデア」の一部を持つことで、その物が何かと「平等」になるというのも変だ。一部は全体とは平等ではないのだから。
ソクラテス:……おっしゃる通りです。どうやら、イデアを「全体」であれ「一部」であれ、物理的に分け持つと考えるのは無理があるようです。
「分け持つ」ことの行き止まり
パルメニデス:そうだろう。では、個々の物がイデアを分け持つということを、君は一体どういう方法で説明するつもりなのかな?
ソクラテス:……パルメニデス先生、正直に申し上げて、今の私にはこれ以上どう答えればよいのか、全く見当もつきません。
「大きさ」のイデアが無限に増える?
パルメニデス:ソクラテス君、君が「イデアはそれぞれ一つである」と信じている理由は、おそらくこういうことだろう。君は、たくさんの「大きな物」を見たとき、それらすべてを貫く一つの同じ「性質(形)」があると感じる。だから、その共通の性質を「大きさのイデア」と呼ぶ。そうだね?
ソクラテス:はい、その通りです。
パルメニデス:では、こう考えてみてはどうかな。君の心の中にある「大きさのイデアそのもの」と、外の世界にある「たくさんの大きな物」を、もう一度セットにして眺めてみるんだ。すると、その両方を「大きい」と思わせるための、さらなる「第二の大きさのイデア」が必要にならないだろうか?
ソクラテス:えっ……。
パルメニデス:さらに、その「第二の大きさ」と、最初の「イデア」と「大きな物」をまとめて見れば、今度はそれらすべてに共通する「第三の大きさ」が現れる。こうして、イデアは「たった一つ」であるどころか、無限に増殖し続けてしまうことになる。これでは君の前提が崩れてしまうが、どう思うかね?
イデアは「心の中の考え」に過ぎないのか?
ソクラテス:……パルメニデス先生、もしかしたらイデアとは、どこかに実在する「物」ではなく、私たちの「心の中にある考え(概念)」に過ぎないのではないでしょうか? それなら、一つ一つの考えとして心に収まり、無限に増えることもないはずです。
パルメニデス:ほう。しかし「考え」というのは、必ず「何かについての考え」であるはずだ。何の中身もない「無についての考え」なんてあり得ないだろう?
ソクラテス:おっしゃる通りです。
パルメニデス:だとしたら、その考えが捉えている「ある共通の性質」こそが、やはりイデアということになる。そして、もし「個々の物はイデアを分け持っている」という君の説を維持したまま、イデアを「考え」だとするなら、おかしな結論になる。
「物は考えを分け持っている」ことになり、そうなると「すべての物は思考している」ことになるか、あるいは「思考なのに思考しない考えがある」という矛盾を認めねばならなくなるが、いいのかい?
「写し絵」としてのイデア
ソクラテス:……いえ、それは無理があります。先生、やはりこう考え直すべきかもしれません。
イデアは自然界の中に「お手本(原型)」として置かれていて、個々の物はそのお手本に似せて作られた「写し絵(模像)」なのだ、と。物を分け持つのではなく、「似ている」ことこそが分有の本質なのです。
パルメニデス:なるほど。だが、もし物がイデアに「似ている」のだとしたら、そのイデアの方もまた、物に「似ている」ことにならないかい? 似ているというのは、お互い様のことだからね。
そうなると、その両方を「似ている」と結びつけるための、さらに別のお手本(イデア)がまた必要になる。……結局、最初と同じ「無限増殖」の罠に戻ってしまうんだよ。
ソクラテス:……。
パルメニデス:ソクラテス君、君が「イデアをそれぞれ独立して存在するもの」と定義しようとするたびに、こうした困難が次々と襲いかかってくる。そして実は、これまで話したことは、これから話す「最大の困難」に比べれば、まだ序の口に過ぎないんだよ。
イデアは「私たちの世界」には存在しない
パルメニデス:ソクラテス君、最大の困難とはこういうことだ。君はイデアを「それ自体として独立して存在するもの」だと言ったね。そうであるならば、イデアは私たちの住むこの現象世界の中には存在し得ない、ということになる。
ソクラテス:はい。もし私たちの世界にあるなら、それは「それ自体」ではなくなってしまいますから。
相対的な関係の断絶
パルメニデス:では考えてごらん。例えば「主人のイデア」と「奴隷のイデア」というものがあるとする。これらイデア同士は互いに関係し合っている。しかし、私たちの世界にいる「具体的な主人(人間)」は、あくまで「具体的な奴隷(人間)」の主人であって、「奴隷のイデア」の主人ではないだろう?
ソクラテス:その通りです。
パルメニデス:同じように、「知識そのもの(イデア)」というものがあるなら、それは「真実そのもの(イデア)」を対象とする知識だ。一方で、私たちの持っている「人間の知識」は、私たちの世界にある「真実(現象)」を対象とする。
神は人間を知らず、人間は神を知り得ない
パルメニデス:ここからが恐ろしい結論だ。
もし、最も完璧な知識(知識のイデア)を神が持っているとするなら、神が知ることができるのは「イデアの世界」のことだけだ。神は、私たちの住むこの不完全な世界の事柄を、その完璧な知識で捉えることはできない。なぜなら、神の知識は「知識のイデア」という高い次元に属しているからだ。
ソクラテス:……。
パルメニデス:逆に、私たちは自分たちの次元の知識しか持っていない。だから、私たちは「イデアそのもの」を認識することは決してできない。
つまり、神(完璧な知を持つ者)は私たち人間を支配することも知ることもできず、私たち人間は神を知ることも、神聖な真理に触れることもできないということになる。……イデアというものを独立して立てようとすれば、こうした絶望的な結論に行き着いてしまうのだが、君はこれを受け入れるかい?
それでも哲学にはイデアが必要だ
ソクラテス:いいえ! そんな結論は到底受け入れられません。
パルメニデス:しかし、今の論理を否定するのは極めて難しい。……だがね、ソクラテス君。もし、こうした困難があるからといって、イデア(物事の不変の形)の存在を完全に否定してしまったら、どうなるだろうか。
思考の拠り所がなくなり、私たちは何ひとつ対話することも、定義することもできなくなってしまうだろう。哲学そのものが滅びてしまうのだ。
ソクラテス:おっしゃる通りです。では、私は一体どうすればいいのでしょうか。
パルメニデス:君に必要なのは「訓練」だ。ソクラテス君、君はまだ若いうちに、一見「無駄で退屈な議論」に見えるような論理の道場に入らなければならない。
思考訓練のルール説明
パルメニデス:ソクラテス君、君が真理を正しく捉えられるようになるためには、ある仮定を立てたとき、その「肯定的な結果」だけでなく「否定的な結果」もすべて洗い出す訓練が必要だ。
例えば、「一(いち)が存在する」と仮定したらどうなるか。逆に「一が存在しない」としたらどうなるか。それを自分自身についても、他者(多)についても、徹底的に検証するんだ。
ソクラテス:恐ろしく大変な作業ですね……。パルメニデス先生、ぜひあなた自身でお手本を見せていただけませんか。
パルメニデス:よし、私が若かった頃を思い出してやってみよう。私の仮説である「一」そのものを対象にする。アリストテレス君、君が私の問いに答えてくれたまえ。
最初の仮定:もし「一」が純粋に「一」であるなら(第一の帰結)
パルメニデス:もし「一」が、いかなる意味でも「多(たくさん)」ではない、純粋な「一」であるとするなら、どうなるだろうか。
アリストテレス:はい、考えてみます。
パルメニデス:まず、純粋な一には「部分」がないはずだね。部分があれば、それは「多」になってしまうから。部分がないということは、それは「全体」でもないということだ。全体とは、すべての部分が揃っている状態を指すからね。
アリストテレス:確かにそうなります。
パルメニデス:部分も全体も持たないなら、それは「始まり」も「中間」も「終わり」も持たない。つまり、それは「無限」であり、いかなる「形(直線や円形)」も持たないことになる。
アリストテレス:形がない……。
パルメニデス:さらに、それは「場所」も持たない。なぜなら、どこかにあるということは、何かに包まれているか、自分自身の中に留まっているかだが、どちらにせよ自分を分割したり、包むものとの境界が必要になったりして、「一」ではなくなってしまうからだ。
「一」の消滅
パルメニデス:形も場所も持たないなら、それは「動く」ことも「静止」していることもできない。さらに言えば、それは「自分自身と同じ」でも「他者と同じ」でもなく、「自分と違う」ことも「他者と違う」こともできない。
アリストテレス:どうしてそこまで言えるのですか?
パルメニデス:何かに「等しい」とか「似ている」という性質を持つこと自体、一そのものとは別の性質を付け加えることになってしまうからだ。
極めつけはこれだ。もし「一」が純粋に一であるなら、それは「時間」の中にさえ存在しない。時間が流れるということは、「今」「かつて」「これから」という区別があることだが、一にはそんな区別(部分)はないからね。
アリストテレス:ということは……「一」は存在しない、ということですか?
パルメニデス:その通り。時間の中にないものは、「今ある」と言うこともできない。存在しないものには、名前も、説明も、知識も、感覚もあり得ない。
……どうだい、アリストテレス君。純粋すぎる「一」を想定すると、結局その「一」は、存在すらできないという結論になってしまった。これはおかしなことだと思わないかい?
パルメニデス:では、もう一度やり直そう。今度は「一が存在する」という言葉の、別の意味を掘り下げてみるんだ。
「一がある」という言葉を解剖する
パルメニデス:ではアリストテレス君、もう一度最初から考えよう。今度は「一がある(一が存在する)」という仮定からスタートだ。このとき、「一」と「ある(存在)」は同じ意味だと思うかね?
アリストテレス:いいえ、違う意味のはずです。
パルメニデス:その通り。もし同じ意味なら、「一がある」と言うのは「一が一だ」と言っているのと同じで、何も説明していないことになるからね。
つまり、「ある一(実在する一)」という言葉の中には、「一(ひとつであること)」と「ある(存在すること)」という、二つの異なる性質が同居していることになる。
アリストテレス:はい、二つの要素が含まれています。
無限増殖のメカニズム
パルメニデス:ここが面白いところだ。
「ある一」は、全体としては一つだが、中身をのぞくと「一」という部分と「ある」という部分に分けられるよね?
アリストテレス:そうなります。
パルメニデス:では、その部分の一つである「一」に注目してみよう。この「一」もまた「ある」ものだよね? だとしたら、この小さな「一」の中にも、さらに「一」と「ある」という二つの部分が含まれていることになる。
同じように、もう一つの部分である「ある」もまた「一(一つの存在)」だ。だからこの中にも「一」と「ある」が含まれる。
アリストテレス:……ということは、分ければ分けるほど、その中からまた「一」と「ある」のペアが生まれてくるということですか?
パルメニデス:その通り! まるで細胞分裂のように、一つの「ある一」から、無限に部分が湧き出てくるんだ。つまり、「一が『ある』」と認めた瞬間に、それはもはや単なる一つではなく、無限の数(多)を含んだものになってしまうんだよ。
「数」と「形」の誕生
パルメニデス:こうして「多(たくさん)」が生まれた。数が生まれれば、そこには「多い・少ない」「限定・無限」という区別ができる。
さらに、部分が集まって「全体」を作れば、そこには「始まり・中間・終わり」という境界ができる。境界ができるということは、そこに「形」が生まれるということだ。
アリストテレス:純粋な一のときには否定された「形」や「場所」が、今度は次々と認められていきますね。
時間の中への登場
パルメニデス:そして、この「ある一」は、常に変化し続けている。
「一」が「多」になり、「多」が「一」にまとまる。この変化が起きるためには、「時間」が必要だ。
今度は「一」は時間の中に存在し、「かつて」もあり、「今」もあり、「これから」もある。そうなれば、私たちはそれを知ることも、名付けることも、語ることもできるようになる。
アリストテレス:先ほどの結論とは真逆になりました。世界が生き生きと動き出したようです。
パルメニデス:……しかし、アリストテレス君。一が「ある」状態から「ない」状態へ、あるいは「静止」から「運動」へと変化する、その「瞬間」とは一体何なのだろうか?
変化とは「切り替わり」である
パルメニデス:アリストテレス君、先ほど私たちは、「ある一」が時間の中にあり、生成したり消滅したり、あるいは動いたり止まったりすることを確認したね。
アリストテレス:はい。一が「ある」と認めるなら、それは時間の影響を受け、変化せざるを得ません。
変化の「空白地帯」
パルメニデス:では、ここが問題だ。止まっているものが動き出すとき、それは「止まっている時間」から「動いている時間」へと移るわけだ。しかし、考えてみてほしい。
まだ止まっているうちは、動いてはいない。
すでに動いているなら、もう止まってはいない。
では、その「止まっている」のでもなく「動いている」のでもない、切り替わりの瞬間は、一体どの時間にあるのだろうか?
アリストテレス:……言われてみれば、どちらの時間にも属さない奇妙な隙間があるように思えます。
「瞬間(とき)」という名の場所
パルメニデス:その通り。その隙間のことを、私たちは「瞬間(とき)」と呼ぼう。
この「瞬間」というものは、時間の中にありながら、実は時間の中に場所を持っていない。なぜなら、もしその瞬間に「長さ(時間)」があるなら、その長さの間はずっと止まっているか動いているかのどちらかになってしまい、切り替わりにならないからだ。
アリストテレス:時間なのに、時間ではない……?
あらゆる対立を超える場所
パルメニデス:そう、この「瞬間」においてのみ、一は「動いているのでもなく、止まっているのでもない」という不思議な状態になる。
同じことが、すべての変化に言える。
「ある」から「ない」へ、「一」から「多」へ、「似ている」から「似ていない」へ。
これらが切り替わるその極小の「瞬間」において、一はどちらの性質も持たず、同時にどちらの性質への道も開かれているんだ。
アリストテレス:なるほど。変化を論理的に説明しようとすると、そのような「時間の外側にある一点」を認めざるを得ないということですね。
パルメニデス:さて、「一がある」と仮定した場合の結論はこれで十分だろう。
では、視点を変えてみよう。一が「ある」とき、その周りにいる「他者(多)」たちは、一体どうなっていると思うかね?
「他者」もまた、バラバラではない
パルメニデス:アリストテレス君、次に「一がある」という前提のもとで、一ではないもの、つまり「他者たち(多)」がどうなっているかを考えよう。まず、「他者」は「一」ではないのだから、完全にバラバラな存在なのだろうか?
アリストテレス:そう思えますが、どうでしょうか。
パルメニデス:いや、「他者」という言葉が成り立つためには、彼らもまた「一」と何らかの形で関わっていなければならない。なぜなら、彼らが「部分」であるためには、それらをまとめる「一つの全体」が必要だからだ。
無限の混沌への「境界線」
パルメニデス:想像してごらん。もし「一」という性質を、それら他者たちから完全に取り去ってしまったらどうなるか。
彼らは「一」を分け持たないのだから、どこまで細かくしても、どれだけ集めても、決して「ひとつ」として数えることができなくなる。つまり、際限のない「無限」の塊になってしまう。
アリストテレス:形も数もない、ドロドロとした混沌のようなものですね。
「一」がもたらす秩序
パルメニデス:その通り。しかし実際には、他者たちは「一」という性質を分け持っている。この「一」という光が当たることによって、無限の混沌の中に「境界(限定)」が生まれるんだ。
「ここまでが一つの部分だ」という区切りができることで、初めて「数」が生まれ、「形」が生まれ、「似ている・似ていない」といった様々な性質が現れる。
アリストテレス:つまり、私たちの周りにある「多くの物事(他者)」が、ただの混沌ではなく秩序あるものとして存在しているのは、それらが「一」と関わっているからなのですね。
結論:一があるから、多も存在する
パルメニデス:そうだ。したがって、「一がある」と仮定するならば、一自身があらゆる性質(一であり多である、など)を持つだけでなく、一ではない他者たちもまた、一によって秩序づけられ、あらゆる性質を持つことになる。
アリストテレス:非常に理にかなった結論です。
パルメニデス:……だが、アリストテレス君。もし「他者」が、いかなる意味でも「一」と関わることがなかったらどうなるだろう?
「一」と「他者」の完全な分離
パルメニデス:アリストテレス君、では話をひっくり返そう。もし「一」がどこまでも「一」であり続け、「他者(一ではないもの)」といかなる関わりも持たないとしたら、他者はどうなるだろうか。
アリストテレス:関わりを持たない……。そうなると、他者の中に「一」が入り込む余地はなさそうですね。
数も部分も消滅する
パルメニデス:その通りだ。他者の中に「一」がないということは、他者は「ひとつ」でもなければ「ふたつ」でもない、ということだ。つまり、数えることが全く不可能になる。
さらに、「部分」という考え方も消える。部分とは「全体という一つ」を構成するものだが、一との関わりがなければ、全体も部分も成立しないからね。
アリストテレス:数えられない、まとまりもない……。
あらゆる性質の喪失
パルメニデス:数えられないものは、多いとか少ないとか言うこともできない。また、一と関わらないなら、それは「自分自身と同じ」でもなければ「他者と似ている」ということもあり得ない。
性質というものは、何らかの形で「一つの形(一)」として捉えられるからこそ成り立つものだ。一が完全に欠如した他者は、似ている・似ていない、動いている・止まっている、といったあらゆる対立する性質を、何ひとつ持つことができなくなる。
アリストテレス:それはつまり、他者については何ひとつ語ることができない、ということですね。
何も残らない結論
パルメニデス:結論を言おう。「一がある」という前提であっても、もし「一」が「他者」と一切の関わりを持たないならば、一は何の性質も持たず、他者もまた何の性質も持たない。……要するに、そこには「何もない」のと同じになってしまうんだ。
アリストテレス:……「一がある」と考えても、関係性を断つと無に帰してしまうのですね。
パルメニデス:さて、これで「一がある(存在する)」という仮定についての検証はすべて終わった。
次は、いよいよ最大の難所だ。もし「一がない(存在しない)」と仮定したら、一体どうなると思うかね?
「ない」と言えるのは、それが何かを知っているから
パルメニデス:アリストテレス君、ここからは「一がない(存在しない)」と仮定した場合を考えよう。まず、誰かが「一がない」と言ったとき、私たちはその言葉の意味を理解しているよね?
アリストテレス:はい、分かります。
パルメニデス:ここが重要だ。その「ない」と言われている「一」は、他のもの(例えば「多」や「二」)とは違う何かだ、と私たちは区別している。もし、その「一」が何であるか全く分からず、他のものと区別もできないなら、私たちは「それが存在しない」と言うことすらできないはずだ。
アリストテレス:なるほど。存在しないと言い切るためには、まず「それが何であるか」という知識が私たちの心の中にないといけないのですね。
「ない一」が持っている「ある」という性質
パルメニデス:その通り。だから、たとえ実体としてこの世に「なくても」、私たちの認識の中では、その「一」は「他とは違うもの」として、ある種の存在感を持ってしまっているんだ。
さらに不思議なことに、この「ない一」について、私たちは多くのことを語れる。
「一はない」という状態は、他のものが「ない」という状態とは違うだろう? つまり、その「一」には「一である」という固有の性質が備わっていることになる。
アリストテレス:存在しないはずなのに、性質がある……。だんだん混乱してきました。
「非存在」を維持するために「存在」が必要
パルメニデス:整理しよう。「一がない」という主張を正しく成立させるためには、その一は「ないという状態」に留まっていなければならない。
もし、その一が「ない」という状態から完全に消え去ってしまったら、もはや「一がない」とすら言えなくなる。
つまり、「ない」ということを維持するために、その一は「『ない』という形での存在」を、どこかで持っていなければならないんだ。
アリストテレス:つまり、完璧に「ない」と言えるためには、皮肉なことに、認識の中では「ある」と認めざるを得ないということですか?
変化と関係性の誕生
パルメニデス:そうだ。そうなると、この「ない一」にも、一転して「ある」のときと同じような論理が適用される。
それは他のものと「似ている・似ていない」と言えるし、「動いている(ある状態からない状態へ移る)」とも考えられる。
不思議なことに、「一がない」という絶望的な仮定からスタートしたはずなのに、私たちの認識がそれを捉えた瞬間に、そこには豊かな議論の対象が生まれてしまうんだよ。
パルメニデス:……だが、アリストテレス君。もし、今の「認識の中での存在」すら認めない、本当の、純粋な、徹底的な「非存在」を考えたら、一体どうなるだろうか。
「全く無い」とはどういうことか
パルメニデス:アリストテレス君、今度は「一がない(存在しない)」という言葉を、もっとも厳格な意味で捉えてみよう。「存在しない」とは、いかなる意味でも「ある」という性質を一切持っていない、ということだね?
アリストテレス:はい、一切の存在を否定する、ということですね。
生成も消滅も起きない
パルメニデス:では考えてごらん。もし「一」にいかなる存在も混じっていないのなら、その「一」が新しく生まれる(生成する)ことも、今あるものが無くなる(消滅する)こともあり得ないだろう? なぜなら、生成とは「ある状態になる」ことであり、消滅とは「ある状態でなくなる」ことだからだ。どちらも「ある」という概念が前提になっている。
アリストテレス:なるほど。変化そのものが「ある」に関わっていますから、真の無には変化すら起きないのですね。
あらゆる関係性の拒絶
パルメニデス:その通り。さらに、この「一」はいかなる性質も持たない。
「自分と同じ」でもなければ「他者と違う」こともない。「似ている」ことも「似ていない」こともない。
なぜなら、もし何か性質を持つとしたら、その性質は「ある」ものとして語られてしまうからだ。
アリストテレス:そこには、比較する対象も、比較する基準さえも存在しないということですか。
言葉と知識の終焉
パルメニデス:結論はこうだ。
いかなる意味でも「存在しない一」については、それを知る方法も、知覚する方法も、意見を持つことも、言葉で表現することも、名前を付けることも、絶対に不可能だ。
つまり、「本当に何もない」という仮定を徹底すると、そこには語るべきことも、考えるべきことも、何ひとつ残らなくなってしまうんだよ。
アリストテレス:……「ある」を一切認めない「無」の世界は、完全に閉ざされているのですね。
パルメニデス:さて、これではあまりに寂しい。では視点を変えてみよう。
「一がない」というとき、その周りにいるはずの「他者(多)」たちは、一体どのような見え方をするのだろうか。
まとまりのない「塊(かたまり)」
パルメニデス:アリストテレス君、もし「一」が存在せず、ただ「他者(多)」だけがあるとしたら、それらはどう見えるだろうか。彼らは「一」ではないから、個体として数えることはできない。いわば、境界線のない「無限の塊」の集まりとして現れるはずだ。
アリストテレス:一つ、二つと数えられない、漠然とした集団ということですね。
近づくと崩れる「最小単位」
パルメニデス:そうだ。遠くから見れば、それらは一つの「塊」のように見えるかもしれない。しかし、近づいてよく見てごらん。
「これが最小のひとつだ」と思って指をさした瞬間、その中にはさらに無限の断片が含まれていることがわかる。一が存在しない世界では、どんなに小さくしても、それは決して「ひとつ」にはなり得ないんだ。
アリストテレス:まるで顕微鏡でのぞくたびに、さらに細かい粒が現れて、いつまでも「最小の単位」にたどり着けないようなものですね。
蜃気楼のような性質
パルメニデス:性質についても同じだ。それらは、あるときは「等しい」ように見え、あるときは「多い」ように見える。あるときは「始まり」があるように見えて、あるときは「終わり」がないように見える。
しかし、それはすべて見せかけの幻影(影絵)にすぎない。なぜなら、それらを「等しい」や「形」として確定させるための「一(基準)」が、この世界には存在しないからだ。
アリストテレス:本当は何の性質も持っていないのに、遠目には何かがあるように「ざわついて」見えるだけなのですね。
幻影のざわめき
パルメニデス:その通り。一が存在しない世界での他者とは、眠っているときに見る夢のようなものだ。何かがあるように見えて、手に取ろうとした瞬間にバラバラに崩れ去り、何も残らない。そこには真実も、確かな存在も一切ないんだよ。
パルメニデス:……さて、いよいよ最後だ。もし「一がない」という仮定のもとで、他者が「一」と全く関わらず、かつ、今のような「幻影」すら見えないとしたら、一体どうなるか。
他者の中にも「一」はない
パルメニデス:アリストテレス君、最後にもう一度だけ確認しよう。「一が存在しない」という仮定において、他者(多)が「一」と少しも関わらないとしたら、どうなるか。
他者は一ではないし、その中に「一」を含むこともできない。だとしたら、他者は「多(たくさん)」であることさえできないはずだ。
アリストテレス:えっ、どうしてですか?
パルメニデス:「多」というからには、それは「ひとつ、ひとつ」の集まりでなければならない。しかし、その「ひとつ」が存在しない世界では、集まるべき中身がないのだから、そもそも「たくさん」という概念自体が成立しないんだよ。
幻影すら許されない
パルメニデス:前回、一がない世界では物事が「何かのように見える(幻影)」と言ったけれど、それさえも実は間違いだったことになる。
何かが「似ている」とか「形がある」と見えるためには、私たちの心の中に「一(基準)」という物差しが必要だ。もし「一」という概念が根底から失われているなら、私たちは「何かがあるように見える」という意見を持つことさえ、本当はできないはずなんだ。
アリストテレス:……そうなると、もはや「影」すら存在しないということですね。
究極の結論
パルメニデス:結論をまとめよう。
「一」がなければ、何も存在しない。
「一」がなければ、「他者(多)」も存在しない。
「一」がなければ、それらが「ある」ように思えることさえも、また「ない」と言えることさえも、一切あり得ない。
アリストテレス:まさに、究極の無です。
パルメニデス:つまりこういうことだ。
「『一(絶対的な一つ)』が存在しようとしまいと、『一』自身も、『一ではない他者(多)』も、互いとの関係においても、あるいは自分自身との関係においても、あらゆる性質を、ある意味では『持っている』ように見え、ある意味では『持っていない』ように見える。また、ある意味では『存在する』ように見え、ある意味では『存在しない』ように見える。いや、そう見えることさえ、本当はあり得ないのだ。」
これが、この対話の全結論だ。
アリストテレス:……その通りです。これ以上、付け加える言葉はありません。
(『パルメニデス』完)
あとがき
若きソクラテスが提示した「イデア論」の未熟さを、パルメニデスは徹底的な「論理の訓練」によって解体し、再構築しました。
最後の一文は、まるで呪文のように矛盾した言葉が並びますが、これは「一(絶対的な原理)」を認めなければ、私たちの認識も言葉も、全てが霧のように消えてしまうという逆説的な証明でもあります。
この過酷な訓練を経て、ソクラテスは後に、より強固な「知」を求める哲学者へと成長していくことになります。
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