慧磨録

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第三章『パルメニデス』 プラトンに関する十一章 アランを原典で読む

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アランの著作を原典から現代語訳しました。

 

「私がまだ若く、彼がひどく年老いていた頃、彼にまみえたことがある。その男には、正に高貴な血統のみが持つ、深淵とも言うべき趣(おもむき)があるように思われた」

(『テアイテトス』より)

 

 名高い『パルメニデス』篇において最も美しいのは、ソクラテスがまだ若造として描かれている点だ。つまり、そこにはまだプラトン自身は生まれていない。彼の教義が、彼以前に、彼抜きで形成されようとしている。それはあたかも、彼の出現を準備するために、独り歩きを始めた思考のようなものだ。自分が生まれる前の自分を探し求めること――これこそが人間の本質的な営みである。なぜなら我々は、まずは先人の仮面を借りることでしか、思考という冒険に乗り出すことができないからだ。それは気象現象のような思考である。最初は嵐のような空に、わずかな光が差し込む。やがて万物が微笑み、天空がその深みを増していく。これこそが、あの「思考の国」の風景なのだ。

 まず、「イデア」について、事物がイデアに「分有(あずか)」ることについて、あるいはイデアと神との関係について、ソクラテスと二人の男との間で、含みを持たせた言葉のやり取りが交わされる。相手は「一(いつ)」の哲学者パルメニデス、そして「矢」や「亀」のパラドックスで知られるゼノンである。しかし、この二人の巨星は、あたかも自らの説に飽き足らなくなったかのように、それを一時脇に置く。そして、既に百回も議論され尽くし、陳腐な常識と化した話題であるかのように、比喩を交えて「永遠のイデア」について語り合うのである。

 事物が「これ」あるいは「あれ」であり、大きくあるいは小さく、美しくあるいは醜いのは、イデアによるものであるという。だが、もしイデア自体が永遠不変で非物質的な「物の世界」を形成しているのだとしたら、そんなことが果たして可能なのか。唯一無二であるはずの個々のイデアが、どうして複数の事物と結びつくことができるのか。

 その結びつきは「類似」によってなされるのではないか、と人は言う。だが、その「類似」という関係自体、イデアと物とは別の、もう一つのイデアではないのか。さらに、そのイデアと「類似というイデア」を結ぶ共通のイデアが必要になり……という具合に、これでは無限に続いてしまう。つまり「イデアのイデア」が際限なく現れ、我々はいつまでも思考を完結させることができなくなるのだ。

 もし、世の多くの人々が考えるように、「イデアは物に似ており、物はイデアという模範(モデル)の不完全なコピーに過ぎない」などという考えに身を任せてしまえば、一体どこに確実な足場を見出せばよいのか。実のところ、この「イデアの世界」は、現実の世界と同じくらい流動的で、一種の運動や生成すら予感させてしまう。だが、神の思考において、これほど馬鹿げたことがあるだろうか。

 そもそも、この超越的な世界はそれ自体で完結していなければならぬし、事実そうなのだ。「主人の本質」が関係を持つのは「奴隷の本質」であって、現実の奴隷ではない。逆に、現実の奴隷が仕えるのは「主人のイデア」ではなく、彼と同じく滅びゆく変化の中に生きる、血肉を持った主人である。

 同じ理屈で言えば、神の持ち物である「至高の統治」というイデアは、この現実世界を統治することはできず、同じく神の持ち物である「至高の知」というイデアも、この現実世界を知ることはできない。

 これらは、この道に足を踏み入れた者の多くが直面し、使い古してきた巨大な困難である。こうして、ある種の「プラトン主義」は死に絶えようとしている。そしてプラトンは、まだ生まれていない。

 これに対し、読者である我々は何を読み取るべきか。これらの困難は、あまりに軽々しく提示されており、重みに欠けるようにも思える。我々にとって真に困難なのは、現実世界を詳細に至るまで反映し、その一瞬の変化や、取るに足らぬ儚い事物までもが永遠に(一体どうやって?)生成されるような、あの「模範(モデル)の世界」を、思考の中に維持し続けることだ。

 結局のところ、イデアの世界は、この世界の「真理」でなければならない。ならば我々の反論は、「イデアはいかにしてこの世界と結びつくか」ではなく、むしろ「イデアはいかにしてこの世界と区別されるのか」という点に向けられるべきだ。

 もしイデアが世界に似ているにもかかわらず区別されるのだとしたら、その二つの世界を繋ぐ「関係の概念」が第三の世界を形作り、それは元の二つよりもさらに複雑なものになるだろう。パルメニデスはソクラテスに対し、こうした困難を、あたかも走りながら列挙するかのように突きつける。我々は、この「殺しても死なぬ偽のプラトン主義」の中を、銘々のやり方で彷徨わなければならない。

 面白いのは、プラトン自身が我々に警告を発している点だ。彼はこの壮大な序論を通じて、我々がさらに先へと進むために、まず真っ先に振り払わなければならない「誤り」は何かを示している。では、その誤りとは何か。

 プラトンにおいて、答えは常に問いのすぐそばにある。だが、それは常に問いとの論理的な繋がりを欠いている。彼はソクラテスを模倣し、対話の筋道を絶えず解(ほど)いてしまうのだ。脱線し、中断し、逃走し、不意に論点を変える。こうした「かわし」が、質疑応答の緊密な連続性と鮮やかな対照をなしている。

 警告は、対話の冒頭に隠されている。パルメニデスは、「善そのもの」や「徳そのもの」を熱心に求めるソクラテスに対し、人間、火、水といったものにも永遠のイデアがあると思うかと尋ねる。さらに髪の毛や泥、垢といった卑俗なものについてはどうかと問われると、ソクラテスは「そこまで言う勇気はない」と答える。

 「ソクラテスよ、君はまだ若いのだ。まだ哲学が君を完全に捉えてはいない。いつか君が、どんな物をも軽蔑しなくなった時、哲学は君のものとなるだろう」

 個々の物の本質が、物とは別に永遠に存在すると考えようとすれば、それは「謎」のままだ。個々の物がイデアのコピーであると考えようとしても、それは「謎」だ。イデアが物に似ている、つまりは「もう一つの物」に過ぎないと考えようとしても、やはり「謎」なのだ。

 イデアが実在する「対象」であり、物と同じように限界を持ち、衝突し、混じり合い、似通ったり異なったりし、物と同じように並置されている――要するに「イデアが物と同じように存在する」と仮定すること。それは、現象(目に見える姿)から十分に自由になっていない、あまりに性急な「観念論」の定義に過ぎない。あるいは、現象を軽蔑するあまり、現象をいちいち説明してくれる「もう一つの世界」を現象の向こう側に求めようとする、短絡的な態度である。

 だが、物の裏側はやはり「物」であり、あちら側の世界もやはり「こちら側」の世界でしかない。あらかじめ読者に告げておくが、プラトンにおけるイデアとは、決して「物の形」をしたものではなく、ましてや物の「類似物」や「模範」としての機能を持つものでもない。

 不忠な弟子であるアリストテレスは、プラトンはピタゴラスの体系の言葉を言い換えただけだと言った。ピタゴラスは「物は数を模倣する」と言い、プラトンは「物はイデアを分有する」と言った、と。

 目に見えるままの事物が、その「実質」であるはずの「関係」を前提としながら、しかもその関係が明らかに事物そのものから生じたものではないという事実。それが理解できた時、この「言葉の言い換え」が決して小さな変化ではなかったことが判るはずだ。

 すでに『テアイテトス』から引いた例で察せられる通り、関係(比率や秩序)は事物の中に現れ、事物から切り離される。だが、言葉が許す限りの抽象化を試みるならば、その「関係そのもの」は、事物の性質を一切持たず、想像力(イメージ)の手をすり抜けていくものである。

 ここでの誤りとは、考える代わりに「想像」してしまうことだ。人間が多かれ少なかれ似ている「人間の模範」なるものを、イメージとして描いてしまうこと。それは単なるメタファー(比喩)に過ぎない。

 しかし、この誤りを避けるのが困難であったことも認めねばなるまい。あのアリストテレスでさえ、「模倣」と「分有」の間の決定的な違いを把握できなかったように見えるからだ。もちろん「分有」という言葉自体が十分に明快なわけではない。しかし、あまりに明白すぎて誤解を招く「模倣」という言葉を退けただけでも、大きな前進であった。

 アリストテレスのこの盲目は、思想史における一大スキャンダルである。彼はプラトンの教えを聞きながら、既に自分の頭の中では別の哲学――イデアも数も単なる表現上の技巧に過ぎないと見なす「自然哲学」――を追いかけていたのだと言いたくなる。

 話を『パルメニデス』に戻そう。プラトンはこの対話篇においても、あるいは他のどこにおいても、これほど詳しく種明かしをしてはくれない。彼は決して包囲されることも、縛られることもない。イデアが常に逃げ去るように、彼もまた逃げ去る。我々が学び取るのは、手ではなく精神による「追跡の運動」だけである。

 さて、ここから局面が変わり、老パルメニデスは若きソクラテスに対し、「美・善・正義」をその真理において捉えるために、あらかじめ修練しておくべき「予備的演習」のヒントを与える。

 ここから始まるのは、およそこの世で最も抽象的で、かつ単純な言葉遊びである。それは最も虚しく、詭弁的で、無益で、空疎なものに見える。

 弟子にこの「遊び」を、適度に、しかし真剣に受け止めさせるために、パルメニデスがいかなる人物であり、いかなるパラドックスを世に投じたかを思い出すことは有益だろう。言葉の定義に従う限り、その理解は容易だ。

 「有るものは有り、無いものは無い」。これが最初の公理である。ここから、「有るもの(存在)」は「一(いつ)」であるという結論が導かれる。なぜなら、もしそれが二つあれば、一方は他方ではないことになり、「無い(非存在)」という言葉が存在について語られることになるからだ。

 それは分割もできない。何によって分割されるというのか。別の存在によってか。それも不可能だ。ゆえに存在とは、類似物を持たず、部分も持たない「一」である。有るものすべてが「存在」であり、無いものは「無」である。ゆえに、無いものは有るものになる力を一切持たず、決して「有るもの」にはならない。存在は、自分が有らぬものへと変化することは決してない。絶対的に、存在は生成も変化もしない。不動であり、不変である。

 部分の運動は、部分を持たないがゆえに不可能だ。全体の運動も、存在が他の何ものとも関係を持たない以上、意味をなさない。弟子のゼノンは、目に見える現象そのものを攻撃し、「複数」は存在せず、「運動」も存在しないことを直接証明したことで有名だ。

 「矢のパラドックス」や「アキレスと亀」といった彼の議論はよく知られており、決して侮れるものではない。これらの空中楼閣のような構成の中にこそ、論理的な抵抗力が潜んでいるのだ。パルメニデスの結論が何であったか、プラトンが彼に語らせている内容からその証明を引き出すのは容易だ。では、それはどのような証明か。

 それは厳密な意味での「論理」、つまり「言葉の法則(言説)」のみに基づいた証明である。言葉の法則がそのまま事物の法則であると仮定すること。それはおそらくこの世で最も無謀な推測だが、我々の思考からそれを完全に排除することは難しい。

 カントの峻烈な教訓を経た我々は、いまや次のような美しい問いを立てることができる。「私が三角形を構成し、それを知覚する時、私はイデアへの道にいるのか。それとも、ある仮定から出発して導き出される、あの抗いがたい論理の言葉こそが、私をイデアに近づけているのではないか」。

 むき出しの事物が証明を担うことはできず、かといって、むき出しの言葉もまた同様である。プラトンもまた、三角形や正方形や円に対して同じ問いを投げかけていたことが予感されるだろう。精神とそれ自身とのこの争いは、いまだ決着がついていない。純粋論理は今なお自らを模索し、自らの正当性を主張し続けているのだ。

 説得することが権力の源泉であったギリシャの世界において、言葉の魔力に酔いしれる人々がいたことは疑いない。この「言葉の遊び」を巧みに操る者たちの中には、それをさらに別の遊びで乗り越えようとする者もいた。ゴルギアスは、「有るものは有り」「無いものは無い」という証明を交互に繰り返し、「ゆえに存在は無い」と説き、再び「やはり存在は有る」と説いたという。それは純粋な弁護術のようなものだった。

 この脆弱な弁証法における証明の根拠は、プラトンの中にも見出される通り、「もし何ものかが絶対的に無いのであれば、それについて語ることすらできない以上、それを『無い』と言うこともできない」という点にあった。

 こうした、驚きもなければ啓発ももたらさない議論を軽蔑するのは簡単だ。だが、これこそが「内省(リフレクション)」の第一歩であったことも認めねばなるまい。精神が事物から身を引き、自らの法則を探し始める。そこにはまだ確固たるものは何も見当たらず、精神は自らをあざ笑う。だが、「笑う」ということ自体が一つの成果なのだ。人を笑わせるその力こそが、正に「エスプリ(才気)」という美しい名に値するものと思われたのである。

 ここであまりに深刻になりすぎるのを避けるためには、『パルメニデス』の前に『エウテュデモス』を読むべきだろう。それは悪意のない道化芝居であり、次のような屁理屈が平然と語られる。「君の犬には子犬がいる。その犬は母親であり、かつ君の犬だ。ゆえに、その犬は君の母親だ」。ソクラテスは、こうした粗野なまやかしを前にただ笑うだけだ。単なる言葉遊びを論破する必要などないからだ。

 しかし、プラトンの深く、常に隠された技巧がここで我々に伝えようとしているのは、別の主題において、そして結論が我々の好みに合う時、我々はこの犬の理屈と大差ない議論を、平然と武器として振りかざしているのではないか、ということだ。プラトンは、単なる「遊び」の相(すがた)を借りて、最も知るべき肝要な事柄を伝えることに長けている。

 プラトンは、好都合な結論をいとも簡単に導き出す「法廷の論理」を考案し、評価し、そして自分自身をもあざ笑うことのできるこの「弁論術」を、その純粋な形式において捉えていたのではないか。

 もちろん、純粋なイデアへと昇り、あるいはそこから降りてくることを可能にする、あの最高に真剣で深い技術を「弁証法(ダイアレクティケー)」と名付けたのはプラトンである。しかし、彼はその対話篇において、真の弁証法なるものを何一つ直接的には示していない。彼の不変のメソッドは、むしろ我々に謎めいた絵画を提示し、その中に突如として「我々自身とその思考」を発見させることにある。

 こうして警告を受け、言葉の呪縛から自由になった時、我々はようやく『パルメニデス』の第二部に立ち向かうことができる。

 先ほど挙げた論法のモデルに従い、「一が有る」と仮定したとき、その「一」自身、および「他の事物理」にとって何が生じ、何が生じないのかを探求する。

 「一」は分割不可能であり、部分を持たず、形もなく、運動も変化もせず、年齢も取らない。つまり時間との関わりを持たない。これはパルメニデスのテーゼそのものだ。

 ところが、次に彼は全く逆のことを証明してみせる。「一が有る」と言うとき、そこにはもはや「一」だけでなく「有る(存在)」という概念が加わっている。存在は一とは別物であり、さらにその両者を分かつ「他」という概念が加わり、いわば第三の登場人物が現れる。こうして、あらゆる数、部分、変化、運動、時間が芋づる式に導き出されるのだ。その後、議論は「一が無い」と仮定する場合へと戻っていく。

 だが、大切なのは、このすべてを読み通すことだ。パルメニデスがこれは単なる「演習」に過ぎないと断ったことを忘れてはならない。この遊びが驚くべき真剣さで行われていることに注目せよ。それは際限なく続くかに見えるが、なぜか唐突に終わる。またしても、プラトンは我々をそこに置き去りにするのだ。

この「星雲」のような、混沌とした議論の集まりの中に、果たして一つの体系だった世界が宿っているのだろうか。つまり、数や空間や時間といった概念が、あの未分化な「一」という概念から、自己分裂や対立関係を通じて次々と秩序だって生まれてくる、という法則である。私たちのあらゆる思考の根底に潜むこの生成の法則が、この対話篇で初めて産声を上げたのだと、そう見るべきなのだろうか。

 確かに、プラトンは最初にこれを単なる「演習」だと断り、途中で前提(仮定)をころころと入れ替えている。それでも、ここに深遠な体系があると信じることは十分に可能だ。プラトンは、自分の望む結論をどうにでも導き出せる「独りよがりな形而上学」には、私たちを飽き飽きさせようとしている。だが同時に、この対話篇の奥底には、いわば「秘密の教義」の影が潜んでいると見てもよい。プラトンが議論を放り出し、結論を急がない「放任」の態度は、しばしば計算されたものだからだ。

 彼は最も重要な結論を、あらかじめ予告したりはしない。それどころか、私たちが安易な結論に飛びつかないよう、わざと注意を逸らそうとさえする。精神の真実というものが、乱暴な手つきでひっ掴まれることを、彼は何よりも嫌っているのだ。

​ たとえこの対話篇の裏側に、厳密な理論体系が隠されていたとしても――あるいは、アリストテレスが報告しているあの「ピタゴラス的な数理哲学(万物を『一』と『二』から発生させる思想)」の萌芽を読み取ることができたとしても――、この対話篇から得られる真の教訓は、そんな「理論の正解」よりもはるかに価値がある。

 では、その教訓とは一体何か。

 それは、思考の「身のこなし」の鮮やかさである。安易な証明を拒む慎重さ、常に議論を振り出しに戻す粘り強さ、そして思考という細い糸を張ったり緩めたり、結んだり解いたりする自在な手さばきのことだ。

 プラトンが不信感を抱いているのは、例えば「樽から酒を汲み出す」ように、ある物の「本質」からその「性質」を自動的に引き出して満足するような、そんな安直で固定的な思考である。

 彼が代わりに提示するのは、関係、対立、反発、引力といった「動的なつながり」が織りなす宇宙全体への眼差しだ。それは、形を成したかと思えばすぐに消えていく不安定な「雲」が漂う、刻々と動く天空のような思考の世界である。そこには、決まりきった正解ではなく、未知の秘密や、思考の冒険や、新たな創造の予感が満ちている。

​ だが、この抽象的な純粋思考にばかり深入りしてはならない。プラトン自身、神(善の原理)を語るには、常にその「反対者(悪や物質の原理)」が必要だと考えていたからだ。彼はこの後、抽象論ではなく、物質の重みや生命の生々しさを湛えた別の「神話」を語り始めるだろう。

 それに対し、この『パルメニデス』で示されたのは、過去の記憶や既成概念に縛られず、自由自在に動き回る「新しく、あまりに自由な精神」の姿である。

 それこそが、何ものにも捉われずに論理を動かし続ける、「純粋な知性」という名の神話に他ならないのである。

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